東京高等裁判所 昭和44年(う)2761号 判決
被告人 横山鉄男
〔抄 録〕
所論は、事実の誤認及び法令適用の誤りの主張であつて、すなわち原判決が本件予備的訴因につき、被告人が自動車を運転して駐車場に向け後退を開始した際被害者が遊んでいた位置は、駐車場入口南端から約七米隔たつている、被告人の右斜め先斉藤たばこ店東北角のコンクリートたたき付近の道路右端であると認め、これを前提として被告人の過失を否定したのは事実を誤認したものであつて、その際被害者等が遊んでいた場所は、駐車場入口南端から約三米隔たつている、斉藤煙草店北側石門の北側門柱付近の道路右端であり、従つて、右幼児が被告人運転車両の後方に出ることのありうることは一般的に予見し得るところであつたのみならず、仮に被害者幼児の遊んでいた位置が原判決認定のとおりであつたとしても、当時被告人の右斜め先道路右端の植込みの付近にも数名の幼児が砂遊びをしており、これらの幼児が遊戯中駐車場内に立ち入るおそれのあることはこれを予見しうるところであつたのであるから、いずれにしても、被告人には後方の確認、警音器吹鳴等の注意義務があるものといわなければならないのに原判決が右予見可能性がなかつたものとして被告人の過失を否定したのは過失責任に関する法令(刑法第二一一条)の適用を誤つたものであるというのである。
よつて記録を調査し、当審における事実取調の結果に徴して考察するに、原審第二回公判における証人根本吉郎尋問調書中には、被告人の自動車が後退を開始した際、被害者佐原清則(当時四年)が砂遊びをしていた場所は、原判決書添付見取図<カ>点(斎藤煙草店北側入口石門の北側門柱付近の道路右側端)と同一である趣旨の、所論に副い原判決の認定事実と相反するが如き証言の記載が存するが、同証人尋問調書を通読すれば、右<カ>点とあるのは、見取図により被害者が遊んでいた場所を指示するに当り、原判決認定の如く斎藤煙草店東北角コンクリートたたき付近の道路右(西)側端を指示すべきところを誤つて<カ>点を指示したに過ぎず、被告人の自動車が後退を開始した際被害者の遊んでいた場所として同証人の指示したところは、斎藤煙草店東北角のコンクリートたたき付近の道路右(西)側端であるというにあることは明瞭であり、このことは、同人が原審第七回公判における証言(第七回公判調書記載)並びに当審における証言(当審証人根本吉郎尋問調書)をも通じ一貫して変らないところであつてこれを信用するに足り、その他右第二回公判における証言の信憑性を疑うべき何等の証左も存しない。しかして同証言によれば、同人は根本新聞販売店の南側にある駐車場に面した軒先の椅子に腰掛けて休息していたところ、被告人運転の自動車が駐車場に向つて後退しようとしており、そのとき斎藤煙草店北側入口石門内右(北)側の植込み付近及び同煙草店東北角のコンクリートたたき付近で少くとも五、六名の幼児が砂遊びなどをしており、被害者佐原清則も妹と一緒にセルロイド製の舟の玩具をもつて右コンクリートたたき付近の道路右側端で遊んでいたが、駐車場内には誰もいなかつた。ところが、被告人の自動車が後退を始めてから突然に被害者が駐車場入口に向い道路沿いに走り込んできて駐車場入口の南側石柱から二米位先のところで、足先を北側に向けて転倒した。自分はこれを見て被告人に対し「馬鹿野郎、危いぞ」と言いながらその場に飛んで行つた、というのであり、これと同人の当審証言とを綜合すると、被害者及びその妹以外の三、四名の幼児が遊んでいた場所は斎藤煙草店北側入口(石門)内右(北)側の植込みのやや奥にある砂場付近であることが窺われ、従つて司法警察員川端文夫作成の昭和四二年八月三日付及び同月六日付各実況見分調書において、根本吉郎が立会人として、被告人の自動車が後退を開始した際、各実況見分調書添付見取図<カ>点(原判決書添付見取図<カ>点と同じ)で数人の子供が遊んでいた旨指示したとあるのも、同人が指示すべき場所の位置を誤つたものと解するほかはない。しかしてこれらの証拠を原判決挙示の爾余の証拠(原判示第二、一、(一)、冒頭参照)と綜合すれば被告人は原判示日時、原判示自動車を運転し原判示場所の道路を都電通り方面(北)から田端方面(南)に向い進行し道路右(西)側にある新聞販売店根本吉郎方南側にある駐車場に自車を車庫入れするため右駐車場入口前の道路(幅員約七・六五米で歩車道の区別なく、アスフアルト舗装で平坦、両側端にL字型側溝がある)の中央で一旦停止したこと、その時被告人は右斜め先の斎藤煙草店北側入口石門内(入口右側の植込みの奥)の砂場付近及び斎藤煙草店東北角にあるコンクリートたたき前の道路右側端(駐車場入口南側門柱から約七米)で数名の幼児が砂遊びをしているのを認め、左方に向け約三米前進して再び停止し同所で左右後方を見たところ、被告人の後退方向に当る駐車場入口及び駐車場内に人影はなく、砂遊び中の幼児らも、遊戯中右駐車場入口または駐車場内に立ち入るような気配を全く示していなかつたこと、そこで被告人は自車右側ハンドルの運転席から首を左後方に廻わし坐席後部の窓を通して後方を見ながら発進して後退を開始し、時速約五粁で駐車場入口に向け進行したところ、その間、発進の直前まで前記斎藤煙草店東北角のコンクリートたたき前道路右側端で遊んでいた被害者が遊戯中急に駐車場入口の方に向かつて、道路右側端の側溝沿いに走り始め駐車場人口南側の門柱付近で足を滑べらして転倒したが、被告人はこれに気付かず自車をそのまま約四・五米後退させたため、駐車場入口(前記南側石柱から約二・三米の地点)において、転倒していた被害者の身体に自車の後輪を乗り上げるに至らしめ、よつて被害者に原判示傷害を与え死亡させるに至つた事実を認めるに足り、原審証人池田キク子、同小泉キミ子の各供述(記載)によるも右認定を左右することができない。所論は被告人の自動車が後退を開始した際、被害者が遊んでいた位置が右のとおりとすれば、右事故発生地点までは約九・三米の距離があり、被告人の自動車が同地点まで約四・五米の距離を時速約五粁で後退する間に、被害者の幼児が走つたとはいえ右約九・三米の距離を進行して右事故に遭つたものとするのは経験則に反するから被害者が遊んでいた位置は、事故発生地点から五米を距てた駐車場南側植込み付近の道路右側端(前記<カ>点)でなければならないと主張するが被告人は後退のため発進するに当り左右を見、更に上体を左に廻わし自車の坐席の後部にある窓を通して後方を見ながら後退を始めたのであるから遊戯中の幼児等から目を放して発進するまでの間に若干の時間の経過があつたことを推測することができるから、後退中に被害者が右遊戯中の場所から小走りに駐車場人口の方に向つて移動し、時速約五粁で後退する被告人の自動車の進路前方に走り込んだとしてもあながち所論のように、これが距離関係上不合理であるということはできない。そして記録を調査し、当審事実取調の結果に徴しても被告人が後退を開始した際被害者が所論の場所で遊戯中であつた事実を認めるに足りる証拠は存しないから、原判決には所論の事実誤認はない。
次に数名の幼児が遊戯する付近の道路上で自動車を運転する場合の自動車運転者の注意義務について考察すると、一般論としては道路付近で遊戯中の幼児が遊戯に気を取られて車両等の接近を顧る余裕なく突如突飛な行動に出て車両等の進路に立ち入る虞のあることは、通常予見し得られるところであるから、数名で遊戯中の幼児等に近接してその側方を通過する場合にはこれら幼児全員の動静に十分な注意を払い適宜減速徐行し、警音器を吹鳴して避譲させ又は一時停止するなどして安全に進行しなければならない注意義務があり、特に自動車を後退させる場合においては前進する場合に比して進路上の見とおしが困難であるから一層右注意を厳にしなければならないものといわなければならないところ、本件事実関係によれば、被告人の自動車が後退を開始した地点から駐車場入口の事故発生地点までは約四・五米の隔りがあるに過ぎないのに、後退開始時に被害者が遊戯中であつた地点から右事故発生地点までは約九・三米の隔りがあり、しかも被害者のいた位置は被告人の自動車の後退方向とはむしろ逆の、被告人の右斜め前方の道路右端であり、かつ、被害者は、ほか一名の幼児と同所にとどまつて砂遊びをしており、その他の幼児数名も斎藤煙草店北側入口石門内右(北側)の植込みの奥の砂場に集つて同様砂遊びをしていて、これらの幼児が遊戯中駐車場入口の方向に移動する気配は全く窺われない状態にあつたのであつて、かかる状況の下において被告人が右幼児らから目を放し左から坐席後部の窓を通して後方を見ながら発進し駐車場入口に向い約四・五米の距離を後退している間に、これら幼児の或る者が突如右遊戯中の場所から駐車場入口に向つて走り始め、被告人の自動車が同方向に後退しているのを目撃し得る状況のもとに走り続け、しかも転倒して被告人の自動車の進路に入るというが如き事態の発生することは被告人においてこれを予測することが不可能であつたものと認めるのが相当であつて、果して然らば本件事故は被害者幼児の通常予測し難い行動に起因して生じたものというほかはなく、運転者たる被告人に対しかかる事態の発生をも予測して事故予防の措置を講ずべき注意義務を問うことはできないものといわなければならない。されば原判決が被告人の本件過失を否定したのは正当であつて所論の法令適用の誤りも存しない。論旨はいずれも理由がない。
(遠藤 青柳 菅間)